パソコンとの出逢い      蟹 江  保     

二〇〇五・八

私は定年退職したらパソコンを初めようと思っていた。

というのは昭和六十年頃パソコンが各中学校に一台ずつ入った。ところが、先進的な若い教師が競って前に座り老兵の出る幕はなかったのと、ワープロを習得するのに精一杯だった。退職前にはワープロで表計算から簡単な画像処理までマスターしていたが、処理能力が大きくて速いパソコンに憧れていた。

平成五年に公立中学校を定年退職し、私立のD高校で第二の人生を化学の先生として工業科の生徒を教えた。工業科の生徒はポケコン(ポケットコンピュータ)が必須科目で全員が持ち、検定試験まで行っていた。私はすっかりポケコンに取り憑かれ、化学記号を覚えるのに利用した。生徒はゲーム感覚で化学記号を覚え授業が楽しくなった。しかし、化学反応式や構造式への発展は機能的に難しく、私の力の限界とあきらめた。同じコンピュ ータなのに取り扱いが違うのは、パソコンはエムエスドス(現在はウィンドウ)でポケコンはべェシックだからと、誰かに聞き納得した。そこでパソコンをしっかり勉強しようと、勤務時間後講習会に通った。そこで、分かったことは、その場で理解しても一週間すると忘れてしまい、自分自身のパソコンを持って実践しなければダメだという、当たり前のことだった。

早速、パソコンが堪能で会社経営をしている教え子に頼んで買ってもらった。先生だから長く使用できるのが良かろうと気を利かせ、ウィンドウでソフトは一太郎V5が入った最新型だった。ところが、講習会も学校も一太郎V4。取り扱いにとまどった。それに、ゲームで楽しんでくれということで多くのゲームソフトを入れてあったが、ゲームを楽しむどころかその取り扱いも分からなかったし、余裕もなかった。

 

平成七年、高校に家庭科が義務づけられ、男子高校にも家庭科の女性教師が来て一年生

は調理やミシンの学習を行い、二年生は情報処理でパソコンを学習することになった。だが、専任の教師がなく理科の教師全員が分担することになり私も二クラス担当することになった。

 

一学期は英文ワープロで堪能な教師がテキストを作ってくれ、最初はブラインドタッチ(キイボードを見ずに打ち込む)を目指した。私自身も朝起きたらまずパソコンに向かい一〇分間のキータッチ練習をした。授業のはじめ五分間はキータッチ練習で何字打てるかを競わせた。はじめた頃はダントツに私が速いが一ヶ月もすぎると抜かされはじめる。生徒に抜かれバカにされるかと心配したが、先生を抜かした満足感でバカにした態度をとる生徒がいないことに安心した。二学期は日本語ワープロ、島渡りと言うソフトの特訓、三学期は表計算でアシストカルク(現在もアメリカでは広く使用されている。)で苦労したがそれだけに楽しさも倍増した。

 

平成八年度は、パソコンの指導は面倒だと教師仲間では人気がなかったので、名乗り出て四クラス担当と倍増した。パソコン検定を行ってはという学校の方針に従って、検定専門委員の資格取得の講習会に派遣された。そして、ワープロ検定・情報処理検定専門委員の資格を取得し、るんるん気分で検定を始めた。同僚の若い先生や事務職員が腕を磨くと云って受験者になり、生徒と同じように検定を受けてくれたことに、今でも感謝で頭が下がる思いである。

平成九年にはパソコン室が整備され、四十五台の一太郎V5の入ったパソコンが入り普通科全クラスを担当する事になった。クラスも半分に分けて教えることなく、まとめて教えることになった。そこで、、学校を設立しているグループの企業・D特殊鋼から出向で授業助手が派遣されてきた。助手にパソコン歴を尋ねたら、表計算のエクセルなら自由自在と聞き力強く思った。ところが、表計算ソフトが一太郎と相性の良い三四郎に変わり、共に苦労したが、結果的にプラスになり、表計算に自信がもてるようになった。

平成十年、化学担当で最初は工業科のみだったが、いつの間にか普通科理系の進学組で化学Uを教えるようになっていた。当初の約束は物理担当のはずだったのに、私が追試でやっと単位を取得した化学を担当するなど夢にも思わなかった。公立高校の進学校の教師の話では「生徒に質問されて、即答できない先生はたよりにされない。家に帰って考えてくるではバカにされ、信用されなくなる。」とのこと。ところが、この高校の生徒は熱心な先生と受け止めてくれ、お陰で大学入試のセンター試験もおぼつかなかった私が、今では化学もパソコンも自信を持って教えているのが、私自身不思議であり生徒に感謝している。

 

 私立の高校は、六十五才までは教諭(正規採用)だが六十五才以上は非常勤講師になる。非常勤講師だと教える教科の免許状がないと教えられない(教諭の場合、許可申請すれば認められる)。そこで、学校より家庭科の臨時免許状を取得するよう要請されて出身大学へ久しぶりに行った。当時、大学の学長は私の一年後輩で親しくしていた友である。中学校・

 

高等学校理科の免許状を持ちながら、六五才過ぎて免許状を取らなければならない侘びしさを感じながら大学へ向かった。偶然車から降りる友を見たが、とっさのことで声が掛けられなかった。申請の手続きは簡単だが出来上がりまで二時間ほど待てとのこと。二階の学長室に行き秘書嬢に面会を申しでたが、学長は今忙しいからと断られた。そこへ学長が部屋から出てきて、「ヤー蟹江さん、久しぶり」と声を掛けられ驚いた。大学改革で忙しいなか、ソファーに掛けながらしばしの間懐かしく話をした。パソコンに挑戦する僕の姿にエールを送ってくれ、充実した気分で帰った。

 その後二年間勤務内容は殆ど変わらず、非常勤だから自由がありますます楽しく働く事ができた。思えば、この学校に来たときはカルチャーショックの連続だった。退職前十一年間は校長として、校長室で悠然と過ごした。ところが、この学校では先生の数が多く職員室に私の席はなく、物理準備室に与えられ、朝の打ち合わせの時だけ職員室に行き立つたまま話を聞く。分校ではベンチ席で、用具を置く戸棚の一部が与えられただけだった。

 

その後生徒数が減り改善され、職員室、物理室、化学担当だから化学室は一人で自由に使った。同期に入った者は六五才で退職、私はパソコンのお陰で残り充実した日々を二年間送った。

 平成十一年の暮れ、校長が来年度は生徒数が更に減り、残念だが退職して戴かなくてはならないといわれ、覚悟してましたと快諾した。心残りは少しあったが気分爽快だった。心残りは、来年度はパソコンの授業にホームページを入れて欲しいと教務部長から話があり、密かに準備をしていたことである。それが第三の人生に大きく響くとは夢にも思わなかった。翌三月めでたく退職。一か月ほどしたら電話が鳴り、化学担当が入院したので明日から一か月ほど助けて欲しいとのこと。快諾して久しぶりの懐かしい学校へ行った。今度は化学担当だからコンピュータには関係ないが、足がパソコン室に向かい静かに整然とした授業風景を見て感動した。パソコン検定も助手の先生がしっかり引き継いでいてくれ安堵した。

 一か月はアットいう間に過ぎ、入院していた先生もすっかり元気になられ、もう思い残すことないバラ色の気持ちで高校を去った。

もう一つの嬉しいこと

 英文ワープロ 四級、三級。  日本語ワープロ 四級、三級、二級、一級  表計算 四級、三級、二級、一級  デターベース三級 の検定を行い、四百数十枚の合格証を出した。日本ワープロ協会には本校の卒業生が勤務していて親切に対応して戴いた。理事長は私立高校の校長が兼務で、その高校には仲間の退職中学校長が勤務しているので特別の親しみを感じていた。

私が退職したことを通知したら、日本ワープロ協会・日本情報処理技能検定協会会長 大谷和雄氏より、丁重な手紙と記念品の置き時計を送って戴いた。第二の人生をバラ色に飾った証拠として、今日も正確に時を刻んでいる。

 

授業で使用したテキスト 左は表計算 三四郎  右は日本語ワープロ 一太郎  

                 

 

左は第二の人生 生き証人の置き時計 右は最初に扱った表計算 アシストカルク

                       

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