愛知用水と三祐コンサルタンツと私

 

平成24年3月

山田光敏

 

1.愛知用水と三祐コンサルタンツ

昨年平成23年は愛知用水通水50周年にあたり、水源地王滝村から関係市町を中心に愛知県主催の記念事業がほぼ一年を通じ行われました。記念事業の最後として10月30日には名古屋市内で愛知県知事をはじめ関係主官庁や法人代表出席の感謝祭が、約千人の市民参加により盛大に行われました。

愛知用水事業の始まりは、第2次大戦の終戦直後の極度の貧困と食料難、水不足に対し、当時の篤農家久野庄太郎さんと、半田農学校教師浜島辰雄さんの2人を中心とする農民団体の必死の訴えでした。これが時の県知事をまき込み農林省に働きかけ、更に時の吉田総理の心を動かし、終に世界銀行(以下世銀)の借款に結びつき、昭和30年10月に愛知用水公団が設立されました。

かくして農業、工業、上水、発電による戦前戦後初の総合開発事業が、実質4年の工期と総事業費423億円(現時価数千億円)により、永年の農民の夢の用水事業として昭和36年10月30日通水を開始したのであります。

通水開始後間もない昭和 39 年9月、東海道新幹線開通と東京オリンピックのほぼ同時開催となり、受益地域は勿論、愛知県の高度経済成長に拍車をかけました。これによって、愛知県の工業生産高は間もなく日本一となり、現在に続いていることは皆様もご承知のことと存じます。

以上の他、愛知用水事業の決して忘れてはならない効果として、人材の育成があります。

世銀に代わってプロジェクトの技術的事項を計画、実施したのはアメリカの民間企業 EFA 社のコンサルタントでした。彼らがスペシャリストとして自信と責任をもって(世界銀行の借款による)大型土木機械による工事を迅速に進めてゆく姿に、我々公団の技術者は等しく感銘を受けました。全国から集まった技術者が、新しい技術を学んだ愛知用水公団は、愛知用水大学とも言われるほどでした。事業完了後公団卒業者は、この様な新しい技術専門企業の設立に向けて、農業土木コンサルタントを企業された方も大勢おられました。

そして、これに先鞭をつけた久野庄太郎さんは、この時既にイランを中心に中近東の開発の構想を抱いておられ、愛知用水事業完了間もない昭和37年2月、公団卒業専門家数名を中心として三祐コンサルタンツインターナショナルを設立されました。時に久野さん60過ぎ、浜島さん40台半ば過ぎの働き盛りの時代でありました。

 

2.愛知用水と私

ここから、愛知用水と私の係わりについて述べます。私は終戦直後の昭和 21 年に学校を卒業し、当時の農林省農地局計画部技術課(課長は清野保氏、その後の世銀交渉の直接の担当者、後に愛知用水公団副理事長)にて食糧増産緊急開拓計画に取り組んでいました。既述の如き陳情に心を動かされた吉田総理の内諾を受け、昭和25年頃農林省は急遽、直轄にて愛知用水計画の調査を着手することとなりました。この調査の係員として私の2年先輩の Y 氏と私、2年後輩の T 氏が任命されました。それ以来、久野さん達と直接お話が出来るようになりました。彼らとの忘れえぬ思い出がいくつもあります。上京した久野さんからお土産に白米の大きなおむすび(銀しゃり)を私ら課員にも頂いたことがありました。更に又私達担当者が、一夏(昭和26年頃と思います)浜島さんの案内で受益市町村の現地調査に駆け回ったことを今でも懐かしく思い出せます。

今省みますと、この愛知用水担当係員に任命されたことが、私のその後の長い人生に対し現在に至るまで強い影響を受けるようになるとは、当時は全く思いもよりませんでした。

農林省は昭和27年度より名古屋に直轄の木曽川調査事務所を開設し、上記 Y 氏が調査課長として赴任し、愛知県(耕地課)との協働作業で愛知用水計画を準備し、それに基づき本省で世銀借款計画書を作成し、世銀に受理されることとなり、昭和30年10月愛知用水公団の設立となりました。これと同時に本省よりの数人の公団幹部職員とともに、私達若い技術者も出向を命ぜられ、翌年4月私は家族ともども名古屋の本部に赴任しました。

公団での私は本部工事課の係員として、又 EFA のカウンターパート(公団側協力者)の一人として、牧尾ダム及び三好池、岐阜県の松の池ダム及び公団発足後の計画変更で新たに追加となった東郷調整池(愛知池)を担当しました。そうして忘れもしませんが昭和34年秋の伊勢湾台風直後、用地交渉で遅れていた愛知池ダムの工事が着手されました。これをもって私は任務から解放され、同年12月中四国農政局の新設間もない道前道後農業利事業所(松山)の工事課長に赴任しました。約 4 年の在職中(昭和3 6 年頃と思いますが)久野さんご夫婦が高知旅行の途中立ち寄って頂き当時県庁にあった土地改良区にご案内し私の官舎に一泊して頂きました。それから、北海道開発局、北陸農政局の農業水利事業所の所長を経て、昭和45年5月、24年間の役人生活に別れを告げ、当時正に発展途上であった三祐コンサルタンツに入社しました。 

 

3.三祐コンサルタンツと私

時まさに我国の高度経済成長期にさしかかり、札幌支店、岡山支店開設も入社後であったと思います。私は国内事業をはじめ農業土木事業協会本部(東京)のコンサルタント部会長兼ねてコンサルタント業界の改善にかかわっていました。しかし当時の私は国内事業よりもむしろ海外プロジェクトのコンサルタント業務に興味と生きがいを抱いておりました。国内事業の傍ら国際協力事業団( JICA )の調査団長として、10人前後の専門家とともに、インドネシア、ビルマ(当時)、パキスタン及びイランの5つの F/S ( フィージビリティ・スタディ : 実行可能性 . 調査 ) プロジェクトを、夫々数ヶ月から一年有余をかけて完成させて頂いたことに、感謝と誇りを感じています。

かくして昭和45年から約20年間三祐に在勤し、昭和時代から平成時代に移って間もなくバブルがはじけた丁度その時(平成2年)退職いたしました。この20年は先にも述べた如く、コンサルタントの民間技術者として私の人生の40台後半から60台半ばの最も輝いたときであったと今深く感謝している次第です。

 

4.退職後のボランティア活動とNPO「愛知池友の会」の発足

退職後今日に至る20余年間は、世間の一部から経済的には閉ざされた20年と称されていますが、幸いにも私は NPO 活動に専念することが出来ました。中でも平成17年に設立した「愛知池友の会」(会員約60余名)では、今日まで6年余愛知池及びその周辺の水辺環境の整備活動を行うことができました。そんな折に起きた、去年3月の東日本の大地震は、災害に対して日頃の備えの必要性と、生活上のエネルギーの大切さを我々に教えてくれました。このことは同時に、やがて訪れるであろう世界的水不足や食料の不足・高騰に対して、現在の豊かな木曽川水源流と愛知用水の上に安住している我々に対する厳しい警鐘でもあります。

こうした時たまたま去年、愛知用水通水50周年を迎え、愛知県当局は約半年に亘り大々的な記念事業を実施いたしました。これに呼応して私たち愛知池友の会は愛知池周辺の市民や NPO による感謝祭としての「愛知池ウォーキング」を去年10月20日企画いたしました。しかし当日は朝からの雷交じりの降雨のため為急遽中止のやむなきに至りましたが、それでも幸いにも小雨の中、一部の参加者450名が我々の本部にて記念品を受け取って頂きました。

更に愛知池友の会の主要な活動目的である愛知用水の受益地域と木曽川水源地域との上下交流活動の促進については、各受益市町当局や法人・企業や NPO により夫々単独ではありますが、その胎動は既に始まっております。我々の活動がこの活動の一助となり愛知用水に対する関心の高まりと関係団体の交流が一層高まり、全受益者が一団となって、来るべき次の50周年にむけて上下流の交流や市民活動が活発になることを願っています。

このため今後の計画として、現在水資源機構愛知用水管理事務所を始め愛知県企業庁や土地改良区等により管理されている「産業用水」としての愛知用水が、更に加えて受益市町の首長、商工会議所、教育関係者を始め市民、関係団体・ NPO が参加した(京都の琵琶湖疏水の如く)地域住民に親しまれる「地域用水」にむけて、 NPO 法人「グラウンドワーク愛知用水」が設立されることを願っています。

 

5.三祐コンサルタンツの次の 50 年に向けての提言

昨年3月の東日本大地震以来、原発をはじめとするエネルギー問題が国内をはじめ世界的課題となりました。このエネルギー問題は我々の生活の利便性や快適性のためであります。

しかしながら一方では、世界的規模の人口増加、経済発展や異常気象等による水、食料の不足、高騰による飢餓の再来による命の危険性が、近い将来の想定内課題として叫ばれてはいます。しかしこうした声は現在の原発、エネルギー政策の陰に隠れて世論の盛り上がりに欠けていることは甚だ残念であります。

こうした危惧感を抱いているのは、私達をはじめとする戦前派や戦争体験者(残念ながら少数派になってしまいましたが)のみでしょうか。飽食の豊かな時代の現在の大多数の市民にとって、こうしたことに思いを致すことは至難のことでありましょうが、少なくとも現在の我国の食料自給率40 % は、原発、エネルギー以上に重要な政策的課題ではないでしょうか。久野庄太郎さん達農民が創った愛知用水は正に生きのびるための命がけの事業でありました。

以上のことを含め三祐コンサルタンツの次の 50 年は愛知用水の今後の50年とともに歩き続けてゆくべきものと思います。

以上

 

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