ジャカランダの花に魅せられ南アへ飛ぶ

高 橋 親  一

 

南アフリカ旅行のきっかけ

 以前から南アフリカのジャカランダの花が日本の桜に匹敵する見事な花であると人づてに聞いていた。出来れば一度はこの目で見たいものだとかねがね考えていた。今年の浜松の花博にジャカランダが出ていると知り、六月末あたりが見ごろと予想し、楽しみにして出かけたが、その数日前の風雨に痛めつけられたとかで展示場所から撤去され、花はおろか木も葉も見られなかった。一方、インターネットで調べると、浜松や静岡では特定の場所で栽培されており、写真も見られたが話で聞いたものとは程遠い感じであった。

 ところが、この夏、 J T B のパンフレットに素晴らしいジャカランダの写真が載っており、早速問い合わせてみると、南アフリカの首都のプレトリアで十月の中下旬に花が見頃になるという。そのツアーはその花見のほか、アフリカ南端の喜望峰、隣国ジンバブのビクトリアの滝及びボツワナのサファリーを組み合わせた九日間の観光旅行となっていた。少し遠いが今の体力ならまだ自信があるし、家内も乗り気になったので、十月二十四日から十一月一日まで二人で南アツアーに参加してきた。

 

ツアーの参加者

今回のツアー客は総勢二十名であった。七十歳台はわれわれの他にもう一組の夫婦と老婦人一名かとお見受けした。殆どが五十歳から六十歳台の人であった。四組の夫婦と単身男性一人のほかはすべて女性で、ここでも女性パワーを見せ付けられた。

遥々と南アまで出掛ける人々は既に欧米などの各地を回り旅慣れた人ばかりで、中の数名はわれわれ夫婦が今年の春訪ねたペルー旅行も体験済みであった。皆さんそれぞれにツアーに慣れた人々なので、今回の長旅でも、誰一人トラブルを起こさなかった。

香港からは同じ飛行機にもう一組の日本人ツアー客が乗り合わせていたし、チョベのサファリーとビクトリアフォールのホテルでも、それぞれ別の日本人グループと出遭ったが、欧米旅行などに比べると見かけた日本人客の数は遥かに少なかった。

 

旅行日程

私にとりエジプト以外のアフリカ旅行は十七年前に一度ケニヤへ仕事ででたけただけであった。その際、ついでに野生動物の生息する自然公園を回ったが、当時は成田発ロンドン乗り継ぎで時間もかかり、随分遠い所へ行った感がした。しかし、今回の南アフリカ行きはケニヤの更に先になるけれども、香港乗り継ぎのインド洋ひとまたぎのため、所要時間も比較的短く、案外、簡単に行くことができた。名古屋十七時二十分発で、翌朝七時にはヨハネスブルグに着いた。この間、時差が七時間あるので、全所要時間は乗り継ぎ時間を含め二十時間四十分であった。途中、台北に立ち寄ったが、香港からの直行十三時間の夜間飛行はさすがにかなりの苦痛をともなった。

ヨハネスブルグでローカル便に乗り継ぎ、最南端の都市ケープタウンには十一時過ぎに到着し、ケープタウンに二泊してケープ半島の観光をした。

第四日目はヨハネスブルグに戻り、新興都市サントンで昼食、待望の花の街プレトリアに入り、一泊。翌日ジャカランダの花盛りの並木道を十分に観賞、その後、開拓記念館に寄り、午後ヨハネスブルグから国際線でジンバブエのビクトリア・フォールズに到着。小型バス二台に分乗して国境を越えて、ボツワナに入り、国立チョベ自然公園内のロッジに

二泊してサファリーを楽しむ。

第七日目は早朝サファリーの後、朝食をとり、チョベのロッジを後にビクトリア・フォールズの町に戻り、ホテルで昼食後、このツアー最後の観光地であるビクトリアの滝を観光して、ホテルに泊まる。

第八日目はビクトリア・フォールズ発、ヨハネスブルグを十七時二十分発の乗り継ぎ便で発ち、香港乗り継ぎで、名古屋空港には九日目の二十一時に帰着した。

結果的には「按ずるよりも生むが安し」の譬え通り、今度のアフリカ旅行も、他の海外旅行と大差なく、出発前に心配したような不便や不自由は感じなかった。

 

南アフリカ共和国

アフリカ大陸の最南端に位置する南アフリカ共和国はその北の一部が南回帰線にかかるので緯度で言えば北半球の台湾あたりに相当する。その北側(亜熱帯)には国境を接して、東から順にモザンビーク、ジンバブエ、ボツワナ、ナミビアがある。

国土面積は日本の約3.2倍、人口約4500万人(内白人が約10%)の国である。金の産出量は世界一、ダイヤモンド、プラチナ、ウランその他の鉱物資源が多く、農畜産物の生産量も多い。国民一人当たりの総生産高は2600ドルで開発途上国とは言えない。また、野生動物の宝庫とも言われ、近年、南アのワインは国際的にも高い評価を受けて来ている。

この国の国造りは1652年にオランダのケープ植民地の設立から始まっている。その後イギリスの支配が強まり、十九世紀末に金とダイヤモンドが発見されるとイギリス支配の自治領となり、1910年に南アフリカ連邦として独立させた。1948年にはイギリスから独立したが、人種隔離(アパルトヘイト)政策をとり国際社会の非難を受けたため、1961年にはイギリス連邦を脱退して共和国となった。しかし、アパルトヘイト体制を堅持したので世界中から孤立してしまった。その後、1991年にアパルトヘイトを撤廃し、1994年に全人種参加の総選挙によりマンデラ大統領の民主政権が樹立した。

国民の平均月収は最低が100ドル、一般のサラリーマンで500ドル、医師や弁護士などの高給取りは5000ドル見当という。しかし、黒人などの低所得者層が多いので全国民平均にすると一人当たりの月収は約200ドル程度になるという。

 

ヨハネスブルグ

南ア最大の都市ヨハネスブルグは標高1600から1700メートル、一年を通じて温暖な気候で、年間雨量が約500ミリの乾燥台地にある。十九世紀に金鉱山の発見で急成長を遂げた都市である。郊外の丘陵地帯では今も掘り跡の残土の山が随所に見られた。市内の中心部には高層建築が建ち並んでいるが、アパルトヘイトの撤廃後は白人達が逃げ出し、今は有色人ばかりとなり、市街は寂れ切っている。われわれは市内をバスで通り過ぎただけであったが、日中でも人通りはあまり多くなく、白人の歩行者は全く見かけられなかった。白人が退去した跡のビルには黒人などが入っているが、ガス、水道、電気などの設備が復元できず、高層建築の上層階はガラ空きだという。夜にはゴーストタウンと化し、街の治安はきわめて悪いという。

大都市郊外にはタウンシップという黒人専用の地区が今なお設けられている。外壁で囲まれた区画内は一見バラック風の小さな建物の家が密集している。ガス、水道、電気などの設備は十分ではなく、衛生状態もよくないが、家賃が極端に安い(月数ドル)ので、住み着いた黒人達はなかなか離れられないという。

 

ケープタウンとケープ半島

ケープタウンは南アフリカ第二の大都市であるが、十七世紀にオランダ東インド会社の補給基地として建設され、ここがこの国の発祥の地となった。現在は欧米風の近代都市と化しており、今年のアテネオリンピックにはその候補地の一つとして、最後まで争った所である。郊外の高級住宅街は南仏のリゾート地を思わせる趣があり、われわれ一般人の抱くアフリカの概念とは結びつかなかった。年中、気候温暖、風光明媚であり、地震、風水害などの天災がないこのような土地に住むことが出来ればと思うが、この付近の高級住宅は一戸が2億から3億円もするという。

ケープ半島の先端部は自然保護区の国立公園となっていて、道端でのんびりと戯れる小型の狒々や駝鳥が見られるし、沖合いには鯨の遊弋が遠望できる。岬ではインド洋の暖流と大西洋の還流がぶっつかるので魚類などの水産資源が豊富だし、生息する野鳥や飛来する水鳥の種類も多い。

ケープタウン到着後、直ちにバスで一面に広がるブドウ畑に囲まれたワインの醸造所に案内され、中の食堂で昼食をとった後、ワイン樽貯蔵庫の隣室でワインの試飲会となった。小鳥の囀りのような綺麗な声の鶯嬢の解説(英語)を受けながら数種類のワインの試飲をしたが、私には、言われるような品質の差異は判断できなかった。

その後、南アで二番目に古く、アフリカ各地からの留学生を含み二万人の学生をかかえるという大学の街、ステレンボッシュに立ち寄り、ケープタウン市内のホテルに泊まる。

第三日目は専用バスで春先のケープ半島の観光をした。野生の狒々や駝鳥を車窓から眺めながら岬の灯台跡(現在は使われていない)のケープポイントに立ち、雄大なインド洋と大西洋を同時に眺め、爽快な気分に浸った。ついで数キロ離れた喜望峰( Cape of Good Hope )に回る。

インド洋側の海辺でロブスターの昼食をとった後、ペンギンの群れが生息する海岸を訪ねた。帰路の大西洋側では船に乗り換え、岩礁に群れる無数のオットセイに近づき、間近に観察することが出来た。何故かペンギンもオットセイも特定の一ヶ所だけに集まっており、その数は多すぎてとても数え切れなかったが、われわれの常識からは見ると非常に小型化した種類であった。

季節は春先にあたり、いろいろな熱帯・亜熱帯の花が見られた。殊に、半島の先端部の自然公園の丘ではプロテアという珍しい南アフリカの国花を随所で見ることが出来た。

この日は暑くも寒くもなく、一日中、好天に恵まれた観光であったが、生憎、早朝から風が強くて、ロープウェイが運休したので、ケープタウン裏山の海抜標高1,087メートルのテーブルマウンテンに登ることが出来ず、山頂からの素晴らしい眺望は断念せざるを得なかった。

サントンからプレトリアへ

ヨハネスブルグからバスで三十分余り北へ行ったところに新興都市のサントンがある。アパルトヘイト撤廃後に金融や産業の中心がヨハネスブルグから移ってきている。建物類は真新しく、緑の木々に囲まれた、落ち着いた雰囲気の漂う街のようであった。

ここでスパゲッティーの昼食をとり、更に北へ向かい一時間余り走って、お目当てのジャカランダの街、首都のプレトリアに入り一泊した。ホテル付近の道路はジャカランダの花に囲まれ、大統領府も近く、環境のよい場所であった。

翌朝、プレトリアの官庁街に近く、高級住宅街とおぼしい通りで、見事に咲き誇ったジャカランダの花を堪能するまで見せてもらった。丁度、日本の桜並木の感じで、葉が出る前に花盛りとなる。花弁は小さな筒状をした薄紫色で、何ともいえない幻想的な花のように思われた。ただ匂いは殆ど感じられず、満開をチョット過ぎ、ボツボツ散り始めていたが、路面に落ちた花びらにも何ともいえない風情が感じられた。

次に街はずれの丘の上にある開拓記念館に立ち寄った。白人たちにとってはこの地に入植した当時の労苦を偲ぶモニュメントであるが、征服された原住民達には好感の持てるものではなさそうだ。中は比較的閑散としており、白人観光客がボツボツ見えたが、黒人の姿は全く見当たらなかった。

ボツワナのチョベ国立公園

ヨハネスブルグから空路約一時間半でジンバブエのビクトリア・フォールズの空港に着く。空港での入国手続きに一時間半程かかり、小型バス二台に分乗して坦々とした潅木の疎林地帯のサバンナを一時間余り走ってボツワナに入国する。さらに十分も走ると、チョベ川沿いのモワナ・サファリー・ロッジに到着した。

ボツワナは1885年にイギリス保護領となり、1966年に独立した共和国である。面積は日本の約1.5倍、人口170万人の小国であって、国土の大半はカラハリ砂漠が占める内陸国である。

独立以後、ダイヤモンド、銅、ニッケルなどの鉱物資源が発見され、観光収入もあるので一人当たりの国民総生産は3000ドル強となり、中所得国に分類されている。

標高約1000メートルの高原に広がるチョベ川沿いの11万平方キロのチョベ国立公園には野生のライオン、象、バッファロー、カバ、麒麟、アンテロープ、インパラ、いぼ猪などが生息していた。

サファリーはその広いサバンナの中を十人乗りのオープンジープで自然状態の動物達を探し、見て回るのである。おおよそ四十〜五十台の車がサバンナの中を入り乱れて、多くの観光客を乗せ、早朝から日没まで走り回っており、途中で何度も同じ車に出会ったこともあった。車は丸裸で防護器具は一切ないが、下車さえしなければ危険はないという。

ツアーでは早朝サファリー(六時〜九時)二回と午後三時半〜六時半の船上からのチョベ川のクルージングが組まれていた。私たちは折角の機会と思い、初日の十時〜十三時のオプション・サファリー(一人当たり45ドルの追加)にも参加した。

ボツワナは象の生息数が世界一の国といわれ、この園内だけでも四〜五万頭は生息しているという。数頭単位から100頭位の群れに何度も出会った。ゆっくりと草を食べている一団がいるかと思えば、水浴びをしたり、列をなし土ほこり上げて移動するなどいろいろな生態を観察することが出来た。また、草原内で草を食べている100頭位のバッファローの一団と対峙した時はこちらも些か緊張させられた。屈強の雄牛達が一団の前面に横一列となってガードする体制をとり、こちらのジープ数台をジット睨みつけていた。

小鹿のようなインパラは至る所で見かけたし、少し大型のアンテロープもよく見られた。麒麟は二〜三頭づついたのを遠くから見ただけで、近寄ることは出来なかった。一度だけ寝そべっているライオンのひとつがいに遭ったが、五〜六台のジープが集まったので、まもなく姿を隠してしまった。

鶏のように飛ぶことは出来ないが羽の色が綺麗なホロホロ鳥の群れはあちこちで見られたし、高い木の枝につがい単位で止まっている名を知らない鳥達もよく見かけた。

船上からのクルージングでは10頭くらいがひと塊となり、岸辺に浮かんでいる河馬を数ヶ所で見た。また、岸辺の草むらに単独で寝そべり、近づいてもピクリともしない鰐にも三ヶ所で出会った。誰かが「ナイル鰐だ」といっていたが、真偽のほどは分からない。

今度のサファリーで気付いたが、土地の案内人の遠目がよく効くことには全く感服させられた。われわれでは全然分からないような遠くから、動物達の所在を発見し、車や船を近づけてくれる。われわれはすぐ傍に行って、指示されてヤットその存在が分かると言った按配であった。

確かにこのサファリーは他所では得られない貴重な体験であったが、以前、私がケニヤのサバンナで見かけたような雄大なスケールのサファリーとは違ったので、なんだか物足りない感じであった。ここは訪れる観光客(西洋人が多い)が多く、自然公園とは言え、域内を車が縦横に走り回っていたし、大きな樹木の大半は象にその樹皮を食べられたとかで立ち枯れており、ここでも貴重な自然はだんだんと失われているように思われた。

ジンバブエのビクトリアの滝

ジンバブエは日本とほぼ同じくらいの広さの国で、人口約1300万人の内陸国である。

1923年にイギリスの自治植民地としての南ローデシアが成立した。1965年の白人政権が一方的に独立宣言をしたが、68年からは国連の経済制裁をうけ、その後開放団体やゲリラの活動があり、1980年にジンバブエ共和国が誕生した。2000年より始まった土地改革による、白人所有の大農場の強制収用、農民への再配分問題は今なお未解決の状態であるという。一人当たりの国民総生産額は500ドル程度とかなり低い。

ザンベジ川の中流でジンバブエとザンビアとの国境にあるビクトリアの滝は北米のナイヤガラ、南米のイグアスと並ぶ世界の三大瀑布の一つに数えられている。

幅が100メートル足らずの大断層の割れ目にザンベジ川の水が流れ落ちる格好になっていて、滝の長さは1.7キロメートル、最も深い滝壷までの落差は108メートルになる。メインフォールのほか六つの滝に分かれていて、それぞれの滝の地溝の向側にビューポイントが設けられているので、比較的間近かに瀑布の観察が出来る。

われわれが尋ねた十月下旬は乾期の終わりにあたり、最も水量が少ない時期であったので、場所によっては水脈の筋が細く、涸れかった状態のところもあったが、幾つかの瀑布では轟音がとどろき、飛沫が飛び散っていた。おまけに時刻と光線の具合が丁度よく、滝壷から立ち上る水煙が鮮やかな虹を造っていて、珍しい光景を眺めることが出来た。

逆に、水量の多い雨期では滝の全区間から膨大な水量が流れ落ち、一面の飛沫となるので、ただ水以外は何も見えなくなるという。

一時間半位かけ、ゆっくりと歩いて、滝の下流側から写真を撮りながら見物して回った。標高約1000メートルの高地であったが、午後の陽射しは強く脚も疲れたし、かなりの汗をかかされた。

夕方四時半からは日没まで二時間をかけて、滝上流のザンベジ川のクルージングをした。川幅が1〜2キロの流れの淀んだところをゆったりと航行し、所々で野生動物を見ながら、ゆったりとした気分のひと時を過ごし、水面に映る入日に感嘆の声をあげた。

夜はローカルの踊りを見ながらのローカル食の晩餐会を楽しんだ。料理には鰐の尻尾の焼き肉をはじめ、駝鳥やアンテロープの網焼きを食べてみたが、結構おいしく頂くことが出来た。

                           (二〇〇四・一一・一五)