謎多きインカの遺跡を訪ねて

高 橋 親  一

 

遺跡への思い入れ

 私が世界遺跡に関心を抱き始めたのは、初めて海外業務で出かけた昭和四十四年に中部ジャワで、ボロブドールの大規模な仏教遺跡を見てからのことであった。季節は十一月、雨期の晴れ間の蒸し暑い太陽の下、噴き出す汗を拭いながら、へとへとになって見て回ったが、その石造遺跡のスケールの大きさには圧倒させられた。当時の感動は三十五年後の今なお私の脳裏に鮮明に焼きついている。その遺跡はまだユネスコによる復元工事にかかる以前のことで、現地の回教徒に破壊され、荒れ果ていた。無残にも石仏の顔は削られ、取り外された仏像の頭は至る所にゴロゴロと転がされたままであった。

 その後、業務で長期滞在をしたイランではペルセポリスを始め、各地の有名無名の遺跡を数多く訪ねた。パキスタンでは肝心のモヘンジョダラは治安状態が悪く残念ながら近づけなかったが、ガンダーラの仏教遺跡はインダス川沿いのカラコルムの奥地からスワット、タキシーラと見て回ったし、シリヤ最大のパルミラ遺跡も見ることが出来た。

 一般の観光旅行でも遺跡めぐりに焦点を当てるケースが多く、エジプト、トルコ、ギリシャ、イタリアでは一通りの遺跡は回って来た。イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国でも遺跡や古い教会、古城などの古代建造物に関心を払ってきた。

 南米ペルーのインカの遺跡は不可解な謎に満ちており、以前から関心を寄せていたが、あまりにも遠いので、現地旅行などは全く予想もしていなかった。ところが、最近、よくテレビの映像を見せられたし、この一月には名古屋の知人が現地に行き、その土産話を聞かされるに及んで自分でもその気になり、俄然、現実性をおびてきた。

 

  インカへの旅

ペルーの季節は日本の反対で、十四時間の時差がある。アメリカで乗り継ぎ、二日がかりの長旅となるので、実際には容易な旅行ではない。しかし、私は七十五歳ながら、今ならまだ体力的にも自信があるし、費用もそこそこであまり無理なく行けそうであった。先ずは第一関門の家内の説得が問題かと思われたが、これが意外とスンナリ同意が得られた。

次は旅行時期とエージェントの選定である。ペルーの夏期(日本の冬)は晴天が少ないといわれ、一般的には五月から九月の冬期がよさそうだが、その時期は旅費が割高となっている。また、出来れば名古屋発着便の方が面倒がなく便利である。それやこれやを考えながらエージェント回りをして、結局、往路は四月二十日名古屋空港発、成田乗り継ぎでニューヨークに一泊し、帰路はヒューストンとデトロイトで乗り継ぎ、直接名古屋空港帰着の『近畿日本ツーリストのペルー全周遊十一日間』の旅を選んだ。

今度の旅の最大の目玉を「空中都市と呼ばれるマチュピチュ」に置いていた。その他にもペルーの首都リマと近郊の遺跡、標高三五〇〇メートルの高地にあるインカの都「クスコ」とその周辺、標高三八〇〇メートル余の高地にあるチチカカ湖とその中で葦(トトラ)の浮島(ウロス島)での生活者、さらに一五〇〇年くらい前と推定される砂漠の中の地上に描かれた「ナスカの地上絵」など世界的に著名な観光地は一通り見て回ることが出来た。

 

    アンデス 文明と インカ帝国の謎

 アンデスの歴史や文明は文字がなかったので、いまだに不明のなことが多く、不可解な謎を多く含んでいる。紀元前七五〇年頃にクスコでワリー文化が起ったが、一〇〇〇年頃には消滅したという。十一世紀末頃にインカ族が現れ、その後次第に勢力を増し、十五世紀末にはクスコを都として、コロンビアからチリまで五〇〇〇キロに及ぶインカ大帝国を形成した。しかし、インカの人々は原住民ではなく、他所から来たらしいといわれ、彼らは比較的小柄であり、お尻には蒙古斑が残っているので、彼らのルーツはわれわれと同じアジア系の民族かも知れない。

 インカ文化は太陽信仰を基本に栄え、領国内には山中にインカ道を張り巡らし、灌漑や給水施設の整った、高度な文明国家であったが、文字がなく、鉄器などの硬い金属文化もない。牛馬のような大型家畜もいなければ、物の運搬や移動の手段としての車輪や歯車の知識も持たなかった。それでいて人口一千万とも言われる大帝国を築きあげ、緻密で堅牢な独自の石積み構造物と巨大な建造物を残しえたのは謎としか言いようがない。

 十六世紀に入ってスペイン人の侵略を受けると、王族や支配階級は全滅し、インカ文明は破壊と略奪の限りに遭った。文字による記録がないので僅か五〇〇〜六〇〇年前のことながら、インカ文化は十分に伝承されないできた。ただ、キープというある法則に基づく紐の結び方があり、それを解読すれば、数字を表すことができたし、それによって行政管理上の数量の記録にしたようである。

 インカ経済は高品質の毛を採るアルパカや、ラクダを小さくしたようなリャマなどの小型家畜を飼育し、比較的急峻な山の斜面に段々畑を開き、玉蜀黍、雑穀、じゃが芋、豆類などの農作物を栽培する農業によりなりたっていた。

 

空中都市マチュピチュ

 アマゾン川の上流に当たるウルバンバ川沿いの V 字型に切り立った急斜面をバスで約六〇〇メートル登ると、標高二四〇〇メートルの山頂付近に忽然として石積みの大集落遺跡が出現する。一九一一年にアメリカ人が発見するまで、この遺跡の存在は侵略者のスペイン人も知らなかった。これが空中都市と呼ばれるマチュピチュ(老いた峰)である。

誰が、何時、何の目的で、どのようにしてこのような急峻な山奥に都市を造ったのか。また、それが何故放棄され、無人の廃墟と化したのか。今もって謎に包まれたままである。

 今回、現地の日本人ガイドの案内で二時間ほど遺跡内を見て回った。最高地点に宗教行事の神殿や祭場、公共施設、その下段に住居地域、日当たりのよい斜面は段々畑の農地にと整然と配置してある。この遺跡についてはいろいろな説を聞かされたが、謎は深まるばかりで、何一つ納得の得られるものはなかった。ただ、このような僅か五〇〇ヘクタールほどの限られた場所に精巧な石積み構造の都市を造り、狭い山の急斜面に三〜五メートル幅の石積みの段々畑を拓いた技術と努力には敬服せざるを得ない。当時のこの都市の推定人口は一〇〇〇人位と見られているが、発掘された遺骨一七三体のうち一五〇体が女性であったといわれるので、宗教色を帯びた施設であったかも知れない。

 

インカの石積み

 インカの石積み技術にはただただ驚嘆するばかりである。大きさや形もさまざまな石を組み合わせ、噛み合せて積み上げるが、石と石との接触面はすべて平滑面に仕上げられ、その隙間にはカミソリの刃も入らない位ピッタリと密着している。十分な道具や機械力のない当時にどうしてそのような精巧な細工が出来たのか、想像を絶するものがある。

 中には V 字型の深い谷の対岸から運ばれたと思う巨石もあり、果たしてどのような運搬手段を採ったものか想像もできない。クスコ郊外のサクサイワマン要塞跡では一ヶの重量が三六〇トンもの巨石積みがあるが、どのような工法であったのか考えつかない。

 クスコの街並にはいたるところにインカの石壁が見られる。なかでも宮殿の礎石の一部といわれる有名な石は縦横それぞれ約百二十及び百四十センチで「十二角の石」(長短不揃いの十二辺形の石)と呼ばれている。そのような面倒な石を積み込んだ理由も分らない。

 一方、段々畑の石積みなど高さ二メートル程度のものには、比較的小さな石が使われ、細工や工事も簡単に済ませているが、それでも現代の石積み工事に較べるとはるかに安定感があり、立派な出来あがりである。

 十六世紀にやって来たスペイン人はヨーロッパ風の教会その他の石造建造物を造ったが、その後の地震で大部分は倒壊した。これに反し、インカ建造物は数度の地震にも耐え、残存しているので、彼らの石積み技術がいかに優れていたかが伺える。

 

チチカカ湖とウロス島

 チチカカ湖はペルー南部のアンデス山地のほぼ中央に位置し、湖の対岸(東側)はボリビアになる。広さは琵琶湖の面積の十二倍に当たり、標高は富士山頂よりも高く三八〇〇余メートルで、汽船の航行する湖としては世界最高位である。アンデスの雪解け水を湛えているので、さぞや神秘性を帯びた雰囲気かと予想して来たが、その期待は見事に裏切られた。岸辺の一部には浮き草が広がり、最近は水質汚濁の心配もでてきたという。

プーノの港から小型汽船で二十分ほど先にある浮島(ウロス島)を訪ねた。この浮島は葦(トトラ)を二メートルほどの厚さに敷いて浮かべたもので、歩くとフワフワとしたマットの感じであって、住民はその上で生活している。最近その住民が減少傾向にあったのを当時のフジモリ大統領が観光開発を呼びかけ、学校や病院を設け、観光客用の宿泊所まで造ったので、また住民が戻ってきたと言う。

現在の住民は漁の他、観光客相手の土産物の手工芸品を作り、それを売っている。葦と呼んでも日本の葦とは違い、現地ではトトラと言う大型イグサのようなもので、その根元の白いスポンジ状の部分は野菜代わりに生食している。それを厚く敷けば浮き島になり、囲って屋根を葺けば住み家となり、束ねると舟になるし、手工芸の材料にもなっている。

 

ナスカの地上絵

ペルーの太平洋沿岸地帯は首都のリマも含め年間に数十ミリの雨が降ったり、降らなかったりの完全な砂漠地帯である。四世紀頃、リマの南方四〇〇キロほどのナスカ地方に国家が出現し、多彩色の土器や織物で有名な独特のナスカ文化が栄えていた。

この平原に四五〇平方キロに及ぶ広大な不毛の大地が広がるが、その台地には七〇〇以上の直線や幾何学模様、約七十の鳥、蜘蛛、魚、猿など動植物の絵を表現した地上絵が五〜六世紀頃に描かれたという。これらの線や絵は十メートルから三〇〇メートルにも及ぶ巨大なものものあり、地上から見たのでは大き過ぎてよく分らない。二十世紀初頭に上空を飛んだ飛行士により、偶然発見されるまで現代人は誰も知らなかった。絵を構成する線は地表の小石を取り除いて白っぽい地肌を露出させただけのもので、深さ十センチ、幅二十センチほどである。

この絵は誰がどのようにして描いたものか、何のための絵かなど謎ばかりである。暦つくりの予言のためとか、農耕に関する呪文の一種だとか、ナスカ文化の神である星座を意味するとかの説があるが、まだ真相は解明されていない。

この地上絵観光には四人または六人乗りのセスナ機に分乗し、約三十分間の観察飛行であった。私は四人乗りの後部座席に家内と並んで座った。家内は初めてのセスナ機で、時々奇声をあげたり、ハラハラしていたが、天気もよく、快適な飛行であった。しかし、ほとんど雨のない砂漠地帯とは言え、一五〇〇年もの風月に曝され、一九七七年に保護区となるまでに人や車に踏み荒れされたので、はっきりと確認できない絵の部分もあった。

 

おわりに

 十一日間の旅とは言え、実質、現地の観光日数は七日間であった。雨期の終りに当たったが、比較的天候には恵まれた旅であった。海岸近くのリマやナスカは熱帯性気候でかなり暑く、逆に標高の高いチチカカ湖畔のプーノの朝晩はかなり冷えた。

 転々と移動する日程がきつく、早朝出発のことも多くて、睡眠不足が続いた。高度の高いところでは体調をくずし、頭痛、食欲不振を訴える人々も出た。私達夫婦も決して楽な旅ではなかったが、期間中にはよく食べ、よく動き回り、十分に旅行を楽しむことが出来た。今振り返り、長年の望を叶えたその満足感と、無事に長旅を終えた達成感に浸っているところである。

 ペルーの治安問題は、個人行動を慎み、旅行者としての当然の節度をわきまえてさえおれば特に心配するようなことはない。われわれの脳裏には一九九六年に起きた日本大使公邸襲撃事件の生々しい記憶があるが、現地で受けた対日感情は決して悪くなかった。

現在のペルー経済は低迷しており、現大統領の評判はよくないようだ。今も失脚中であるがフジモリ前大統領の復帰を望む声が高いという。今、南米やペルー旅行はマスコミでも盛んに宣伝されているので、これからの日本人観光客は益々増えるかと思う。ペルーは鉱物資源や水産資源が豊富なので、今後の日ぺ両国関係は観光面ばかりか、経済面での結びつきも一層強まるように思えてならない。         (二〇〇四年五月)

写真上:マチュピチュの遺跡と筆者夫妻

写真下:インカの石壁の残るクスコの街

   

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