タクラマカン沙漠縦断の旅

 

  ―シルクロードの難所をバスで横断するー

高橋 親一

さすがに中国は広い

 「天山山脈とタクラマカン沙漠縦断」というキャッチフレーズに惹かれて、九月下旬から十月上旬にかけた十一日間で中国奥地の新疆ウィーグル自治区のツアーに家内と二人で参加した。中部空港から上海まで二時間とチョット。上海で入国手続きをし、同じ飛行機が国内線に切り替わって、西安までの飛行時間もほぼ二時間、ここで先ず一泊。翌朝小雨の中、シルクロードの起点となる西安城砦の西門を見物して、ほぼ正午に西安を飛び発つ。次の新疆ウィーグル自治区の首都ウルムチ到着までには三時間余りかった。

一旦、ウィーグル市内に出て夕食をとり、乗り継ぎ便を待ったが、十九時三十五分発の予定が遅れに遅れ、離陸したのが二十二時半近くであった。一時間四十分かかって、ヤット最終目的地である中国西域の沙漠の奥地の町、カシュガルに着いた。名古屋からの実飛行時間(それぞれのフライトの離陸から着陸までの所要時間)は累積で八時間五十二分となった。中国本土上空の飛行時間だけでも、ジェット機を乗り継いだ三便の合計で六時間四十八分飛んだことになった。

公式には日本と中国の時差は一時間である。しかし、これはいわゆる北京時間であって、今回訪ねた地域では別のローカルタイムがあり、日常生活は北京と二時間の時差をつけている。結局、日本と現地との時差は実質三時間ということであった。

新疆ウィ - グル自治区は西域と呼ばれ、民族も西アジア系のウィ - グル人が九割近くを占める回教徒の地域である。国土の殆どは天山山脈や崑崙山脈などの山地とその間に広がる沙漠地帯である。その面積は膨大で中国本土の六分の一を占め、日本の四倍余りとなる。そのほぼ中央にあるタクラマカン沙漠は東西の長さが約千キロ、南北の最大幅は約五百キロの広さがあり、面積は日本全土の八割五分に相当するという。

かっては玄奘三蔵がインドの行き帰りに滞在して布教したところであり、西遊記で孫悟空の活躍の舞台となった火焔山がある。今回はそういった異境の地を求めて訪れた旅であった。

同行者は私共ともう一組の夫婦を含め総勢十名で内、女性が七名、男は僅かに三名であった。その殆どは既に欧米諸国はじめアフリカや南米各地など数多くの旅行体験を重ねた六〜七十歳代の高齢者であった。

 

沙漠横断十時間のバス旅行

シルクロードの旅といっても西安から敦煌まで、あるいはその先のウルムチ・トルファンまでは日本でもよく知られており、日本人旅行者も多いが、それ以西となるとずっと少なくなる。表題の「タクラマカン沙漠縦断」は空路での話で、私はこの旅の目玉を沙漠横断のバス旅行においていた。このタクラマカン沙漠(入ると生きて出られないという意味)はアフリカのサハラ沙漠に次ぐ世界第二の規模といわれている。私はこれまでにイラン、パキスタン、シリアで大小さまざまな沙漠を見てきてきたが、今回は砂漠を丸一日かけて横断するという、如何にもスケールの大きいバス旅行になると期待して出掛けた。

タクラマカン沙漠のほぼ中央部を横断する総延長五百キロの「塔里木沙漠公路」は完全な舗装道路であった。起伏もカーブも緩やかで、その中を中国製の小型バスはただひたすらに走るばかりであった。この公路は十年程前に石油開発のために建設されたといい、現在でも通行車両は少なく、時折、対向車両に出会う程度であった。

この砂漠の中央部はタリム盆地と呼ばれ、一面に緩やかな砂の起伏が広がっていて、案内書では「漣を打つ砂の大海原」と表現していたが、期待したような巨大な砂丘もなければ雄大さもなく、苛酷な大自然といった感情は湧かなかった。全線にわたり道路の両側に三十〜五十メートル幅の飛砂防止ゾーンを設け、そこには乾燥に強い木を植え、育てていた。その木々の根元には細いチューブを這わせ、点滴灌漑をしている。水源は道路脇に四〜五キロ置きに深井戸を掘り、ポンプ場を設けて給水するという念の入れ方であった。

公路北側の始点よりにタリム川が流れており、天山・崑崙の山奥の雪解け水が集まりトートーと流れていた。この水は途中で取り入れられたオアシスの村々あたりでは農業や生活に利用されるが、残りの水は沙漠の低地に吸い込まれてしまう。この川に近い辺りでは胡楊樹やタマリスクの自生地があり、立ち枯れたとなった古木も見られた。

われわれは朝の八時二十分に沙漠の南側から沙漠公路に入った。十八時二十一分に北側の公路入り口を出るまでには途中に食堂と給油所が一箇所あるだけで、あとは点在する灌水用のポンプ小屋以外の建造物は一切見られない。途中のトイレ休憩にはすべて青空トイレとなる。適当な所でトイレ停車をすると、男性はバスの右側、女性はバスの左側に分かれで用足しをすることになるが、女性でも慣れると抵抗はなくなるようである。

昼食は中にある唯一の食堂でとったが、トラック二・三台と自家用車および路線バスがそれぞれ一台停車していただけで、混雑することもなかった。そこでは油を使った普通の肉や野菜の料理のほかにラグマンという「手延べうどん」が出された。それに添乗員が用意した日本の麺つゆをかけると、結構コシとノビがあってウマク食べられた。

 

車窓の風景

今度の旅行では遺跡めぐりなどの短距離移動の場合を除き、数百キロ単位のカシュガル → ホータン、ホータン → ニヤ、ニヤ → クチャ(この間で沙漠横断)、クチャ → コルラ、トルファン → ウルムチの各都市間移動の長距離バス旅行が全部で五回あり、総計で二千百キロを走破した。タクラマカン沙漠の横断以外では、シルクロードのテレビ報道によく出るポプラ並木の街道や日干し煉瓦造り住宅の農村風景、僅かな雑草がまばらに生えた乾燥地特有の大地とその間に点在する地表に塩が白く吹いている荒廃地など中近東の田舎に似た景色が随所に展開していた。

雪解け水を利用した灌漑施設のある所では俗にオアシスといわれ、緑の農地が広がり、防砂の樹木がそびえ、集落が出来ている。沙漠地帯では土の中に含まれる塩分が多いので、ここの農作物も塩分に強い小麦、玉蜀黍、 棉 花など栽培されていた。特に 棉 花は中国国内でも有数の生産地といわれ、綿の収穫をしたり、運搬しているところも見掛けた。この他、特に水の豊富な所と思うが稲作の水田も二ヶ所で見られた。

 

天山山地を越える南疆鉄道の旅

天山山地の一部を走る南疆鉄道の旅にはまた別の楽しみがあった。この列車では軟座席という一等寝台のコンパートメントに四人づつ乗り込み、全長四百五十キロを九時間余りかけてのんびりと走った。列車は一日一便で、始発駅コルラを定刻の十二時をチョット過ぎて発車した。標高三千メートル級の峠を越えてトルファン到着は二十一時二十一分であった。この先、終点の西安到着は翌々日になるという。われわれ以外の乗客は殆ど土地の人々であったが、比較的に裕福な人々らしく身なりもチャンとしていた。ちなみにコルラ → トルファン間の一等寝台の料金は百二十元 ( 約千八百円 ) であった。

客室は二段ベッドを畳んで使ったが、特別よくも悪くもなかった。食堂車の料理もあまり抵抗もなく食べることが出来た。

列車は渓谷沿いに2.5%の急勾配をコットンコットンと登ったが、このような大陸には珍しく清流が流れ、一部にはループ式のトンネルもあるし、車窓には羊や駱駝がのどかに群れる放牧場が広がり、その先には新雪らしい雪を被った峰 々が遠眺された。放牧地の草は既に枯れていたが、五・六月の新緑の頃なら素晴らしい風景かと想像された。

この鉄道は途中に鉄鉱石を産出する鉱山があるのでそのために最近敷設したもののようである。単線で、列車の運行本数は非常に少ないが、その割には保線状態がよく、乗り心地も悪くはなかった。

 

遺跡めぐり

 この地域は東西を結ぶシルクロードの要衝にあり、その歴史と文化は紀元前に遡り、各地に遺跡が多い。トルファン盆地の高昌故城は五〜七世紀にかけての漢人王朝の遺跡であり、交河故城は八世紀の唐の城砦都市であった、仏教遺跡はクチャ郊外のキジル千仏洞、火焔山近くのベゼクリク千仏洞、あるいはスバシ、高昌、交河の各故城内でも見られた。

これらの遺跡は日干し煉瓦を積み上げたものが多く、今はその残骸の一部を留める程度ものが多い。一般に石窟といわれていても実際には固結土砂の中に設けられ、表面を漆喰状のもので固めており、あまり強固な構造物ではない。しかも、その後、回教徒による破壊活動にあい、仏像や壁画は散々に傷め尽くされている。断片的に残された壁画面などを見、案内人の説明を聞いてもあまり理解できず、あれこれと想像したに過ぎない。また一部は十九世紀以降のヨーロッパの探検家たちに持ち去られた壁画もあるという。

これらの遺跡は世界人類にとり貴重な文化遺産といえるが、保存状態が極めて悪く、今となっては残念に思えて仕方がない。ただ、乾燥地域のため雨が少ないので、何とか千年あるいはそれ以上もの年月に耐え、その一部が残ったということである。

 

あとがき

今度の旅は私にとっては幾分期待はずれの感があり、経費と時間の割には得たものが少なかったと思う。しかし、中国奥地まで足を伸ばし、直接、風物を見聞し、そこに住む人々の生活を垣間見ることが出来たのが得がたい収穫であった。

私のこれまでの経験と比較しても、このような乾燥地の人々は国が違い、民族が違っても大体に似たような生活をしている。それも数千年前の昔からのシルクロードによる交流があった結果であろう。駱駝に頼るだけで、命をかけて広大な沙漠を行き来して、文化を伝えた古代の人々の勇気と努力にはただただ敬服するばかりである。

(二〇〇五・一〇・一八)

 

戻 る